囲い込まれた仕事
組織の中に、ある人にしかできない仕事がある。
その人が休むと、その仕事は止まる。
その人が異動すると、引き継ぎに数ヶ月かかる。
その人に聞かないと、誰も判断ができない。
一見すると、その人は「必要不可欠な人材」に見える。
けれど実際には、その人自身が、その仕事を「囲い込んでいる」ことがほとんどだ。
属人的な知識を持つことは、確かに強みだ。
その分野の経験が深く、蓄積されたノウハウがある。
周囲からも頼られ、その人がいなければ回らないという実感がある。
そこから生まれるのが、ある種の安心感だ。
自分の価値が認められている。
自分は替えがきかない。
だから、職場での立場は安定している。
その安心感を守るために、人はどうするか。
その仕事のやり方を、あえて複雑なままにしておく。
引き継ぎ資料を、わざとざっくりにしておく。
判断基準を口頭だけで伝え、形式化しない。
「これはこうやるもの」という経験則で対応し、なぜそうするのかは説明しない。
こうすることで、その人にしかできない領域が生まれる。
そして、その領域がある限り、その人の存在意義は保証される。
当人の視点から見ると、これは自分のキャリアを守る戦略だ。
会社が自分を必要とする理由を、確実に作っておく。
その仕事を失わないように、自分だけが持つスキルセットを強化し続ける。
評価を高めるために、「この人がいないと困る」という状態を、無意識のうちに維持しようとしている。
短期的には、それは成功しているように見える。
その人の評価は高い。給与も上がるかもしれない。
役職も上がるかもしれない。
会社も、その人の価値を認めている。
けれど、そこに潜む問題がある。
組織とは、本来は、個人の専属物ではなく、共有物であるべきだ。
知識も、プロセスも、判断基準も、できるだけ可視化され、誰もがアクセスできるようになっていることが、組織の基本的な強さになる。
なぜなら、組織は個人より長く生きるものだからだ。
どんなに優秀な人でも、いつかはその組織を去る。
異動もあれば、退職もある。
その時に、その人の知識や経験が、全て失われてしまっては、組織は脆くなる。
だから、属人的な知識は、できるだけ組織の資産に変えていく必要がある。
暗黙知を形式知に変える。
個人の経験を、組織の仕組みに変える。
そうすることで初めて、組織は成長し、強くなる。
しかし、仕事を囲い込む人には、この視点が見えていない。
見えていないのではなく、見たくないのかもしれない。
自分の価値が相対的に下がるのではないか。
自分の存在意義が薄れるのではないか。
その不安が、囲い込みを続けさせている。
そして、ここが組織にとって最も厄介なところなのだが、経営層がこの問題に気づいていないことも多い。
経営層の視点から見ると、その人は「優秀な人材」に見える。
仕事をよく知っている。
判断が早い。
品質も高い。
任せておけば回る。
その一面だけを見ると、その人は確かに「いい人材」だ。
だから、経営層は、その人を信頼し、その人にさらに仕事を任せる。
その人の評価も上げる。
すると、どうなるか。
その人は、さらに仕事を囲い込む。
さらに必要不可欠な存在になろうとする。
そして、組織の中で、その人を中心とした「依存構造」ができあがる。
経営層は、その人がいることで、その領域の仕事がちゃんと回っていると思う。
だから問題に気づかない。
むしろ、その人の評価をますます高くする。
けれど実は、その依存構造こそが、組織の弱点になっているのだ。
その人が病気になったら。
その人が退職したら。
その人が異動したら。
一瞬にして、その領域の知識が失われ、判断ができなくなり、後任者が迷う。
急遽、引き継ぎを急ぐことになり、引き継ぎは不完全に終わる。
結果、その領域は混乱し、品質は低下する。
それでも、経営層は気づかないかもしれない。
「あの人がいなくなったから、仕方ないね」と思うだけだ。
その領域の仕事が、本来はその人に依存していなかったはずだ、ということに。
では、仕事を囲い込む人は、本当に「悪意」を持ってそうしているのか。
多くの場合、答えはノーだ。
その人は、自分が必要とされたい、という深い欲求を持っている。
自分の価値を感じたい。
自分の存在意義を確認したい。
その欲求は誰もが持っているものだ。
ただ、その欲求を満たす方法が、「仕事を囲い込む」という形になってしまっているだけだ。
本来は、その人の深い知識を、組織全体に広げることで、より大きな価値を生み出せるはずなのに。
その人は、逆方向に走ってしまっている。
そして、その人も気づいていないかもしれないが、実は、囲い込みは本人にとっても負荷になっている。
常に、自分がその領域の責任を持たなければならない。
常に、自分が判断の中心にいなければならない。
常に、自分にしかできないという重圧を背負い続けなければならない。
それは、一見すると「必要不可欠」という地位に見えるが、実は「逃げられない立場」でもある。
その人は、その仕事から解放されることができない。
その領域を手放すことができない。
組織がこの問題に気づくには、どうすればいいか。
まず必要なのは、「その人がいなくなった時、その仕事は回るのか」という問いを立てることだ。
それは、その人への不信ではなく、組織の強さを測るための問いだ。
回らないのであれば、それは組織の弱点だ。
その弱点を見つめることから、改善は始まる。
次に必要なのは、属人的な知識を、できるだけ組織化することだ。
その人の協力を得て、プロセスを可視化し、判断基準を明文化し、マニュアルを作る。
後任者が育つための仕組みを作る。
そして、その人の評価の基準を変えることだ。
「この人がいないと回らない」ことではなく、「この人が知識を組織に広げた」ことを評価する。
「この領域を一人で抱えた」ことではなく、「この領域を組織全体で担える状態にした」ことを評価する。
そうすることで初めて、その人の価値は、「必要不可欠」から「組織を強くした人」に変わる。
それは、実はより大きな価値だ。
仕事を囲い込む人は、実は、組織にとって最も難しい人材でもある。
能力が高いから、表面的には問題が見えない。
成果が出ているから、組織も満足する。
その結果、問題はますます深くなっていく。
けれど、その人も、組織も、実は同じ方向を見ていない。
その人は、自分の安心感を求めている。
組織は、組織全体の強さを求めている。
その目線のズレを、どこかで正す必要がある。
そして、それは、管理職や経営層の仕事だ。
能力の高い人材こそ、実は「組織に知識を返す」という別の価値を持つことができる。
その可能性を引き出すことが、組織を本当に強くする。
仕事を囲い込むのではなく、仕事を広げる喜びを知ること。
それが、実は、その人自身の最大の成長でもあるのだと思う。