対話が豊富に見えるほど、 実は核心の沈黙が深い
ある会社の社長の話だ。
実に良い人だ。
一生懸命で、トップ営業もするし、現場の細部にまで気を使おうとしている。
分析力や理論で圧倒するタイプではないのに、組織を引張り、次々に課題を解決し数字を伸ばしていく。
スマホの使い方が下手だったり、お酒が苦手だったり、約束したことを忘れたりと、落ち度もある。
完璧には遠いキャラクターだ。
けれど、誰もがその社長についていく。
誰も社長のことを悪く言わない。
これがカリスマ性だと思い込まされる。
ただ、ここに一つの違和感がある。
その社長は、部下たちと話し合う。
雑談もあれば、報告も上がる。
相談の場もあれば、全員で話し合う場もある。
対話は豊富だ。
なのに、誰も社長にネガティブなことを言わないのだ。
社長のやり方への異論も、判断への疑問も、現場の不安も、本当に困っていることも。
対話は形式化している。
これは、業績が上昇している間は、問題に見えない。
成功体験が「この判断は正しかった」を繰り返し、「社長についていくことが正解」という確信になるから。
けれど、この依存構造は、組織にとって極めて脆いのだ。
なぜなら、判断の中心が一人の人間に集約されているから。
多くの組織を見ていると、気づく現象がある。
「対話が豊富に見えるほど、実は核心の沈黙が深い」ということだ。
冷たい組織は、むしろ分かりやすい。
対話がないから、反発も起きるし、異論も出る。
その緊張関係の中で、組織は複雑だがダイナミックに動く。
けれど、良い人が一生懸命やる組織では、違う現象が起きる。
部下たちは、その人を信頼している。
同時に、その人を傷つけたくないと思っている。
その人が良い人だからこそ、裏切りたくない感覚がある。
だから、表面的な対話は豊富だ。
けれど、本当のことは言わない。
やり方に違和感があっても、言わない。
判断に疑問を持っていても、言わない。
現場が困っていても、言わない。
なぜか。
「あの人が一生懸命だから」
「あの人が良い人だから」
「皆がついていっているから」
そういう理由で、言葉を飲み込む。
一方、その中心人物の側はどうか。
対話は豊富に行われている。
部下たちと話し合っている。
意見を聞いている。
皆がついてきてくれている。
つまり、その人には「対話が機能している」と見えているのだ。
ここに、致命的な乖離がある。
中心人物は「部下たちが何も言わないのは、判断が正しいから」だと解釈する。
部下たちは「あの人を傷つけたくないから、言わない」と考えている。
双方が「相手のため」と思っているのに、実は、最も大事な対話が失われている。
良い人が一生懸命やることで、何が起きるか。
組織の自立性が奪われるのだ。
その人が現場に入り、細部に気を使い、判断を担う。
部下たちは、その判断に従う。
あの人がやってくれるから、自分たちで判断する必要がない。
無意識のうちに、部下たちは「その人の判断に寄せる」という習慣に入る。
それは、見た目には「組織がまとまっている」に見える。
実は、「依存構造が深化している」という状態だ。
組織の自立性が失われるということは、組織の多様性も失われるということだ。
異なる視点が出ない。
別の判断基準が育たない。
全ての判断が、その人という一つのフィルターを通って、組織に降りてくる。
短期的には、これは効率的に見える。
判断が早く、ぶれがなく、組織が一体化している。
けれど、それは幻想だ。
その一体化は、実は「その人への依存」に他ならない。
では、その人の判断が届かなくなるようなことが起きたら、どうなるか。
異動かもしれない。
新しい役割かもしれない。
あるいは、予期しない状況かもしれない。
その時、組織は初めて気づく。
「自分たちで判断する基準を、持っていない」ということを。
なぜなら、判断の中心が、そこに居たから。
その人が指導していた時の意思決定は、シンプルだった。
「あの人に聞く」
ただ、それだけだ。
部下たちは、判断基準を自分たちの中に持っていない。
「こういう場合はどうするのか」という経験値も、ノウハウも、その人の頭の中にしかない。
その人の判断が中心でなくなると、部下たちは初めて気づく。
「自分たちは、何も決められない」ということを。
それは、個々の部下たちの能力の問題ではない。
組織の構造の問題だ。
判断をその人が一元化してきたから、部下たちの判断能力は、あえて育てられなかったのだ。
判断基準が形式化されていないから、その人が中心でなくなると、その基準も曖昧になる。
意思決定のプロセスが可視化されていないから、新しい指導者は「どう判断すればいいのか」という組織の暗黙知に戸惑う。
ここで、非常に危険な現象が起きる。
新しい判断の中心が現れる。
けれど、部下たちの心には「これまでとは違う」という違和感が残る。
無意識のうちに、新しい指導者と「これまでの指導者」が比較される。
「これまではこうしていた」
「あの人なら、こう判断していた」
新しい指導者が、どんなに優秀でも、どんなに良い人でも、関係ない。
部下たちは、「あの人ではない」ということだけで、納得できない。
その時、組織には何が起きるか。
表面上は受け入れている。
でも、心の中では比較している。
新しい指導者の指示には従うが、同時に「あの人だったらどう判断していたか」を考えている。
その乖離の中で、組織は、見えない疲労を溜め始める。
さらに厄介なのは、このプロセスが「見えにくい」ということだ。
反発がない。
反乱がない。
表面的には、組織は回っている。
だから、誰も問題に気づかない。
むしろ、「皆が落ち着いて対応している」と見える。
けれど、その対応の下には、「かつての中心人物が居ないことへの深い喪失感」と「新しい指導者への心理的な距離」が存在している。
その距離は、時間がたつほど、埋まらない。
なぜなら、組織内に「本当のことを言う文化」がないから。
部下たちは、新しい指導者に対しても「傷つけたくない」と思う。
新しい指導者は、部下たちが「本当は何を思っているのか」が分からないまま進める。
結果、組織は、表面的には機能しているように見えながら、内部では深い亀裂が走っている。
そして、時間がたつにつれて起きるのが、人の離脱だ。
それは、劇的ではない。
「かつての中心人物が居なくなったから、皆去る」というわけではない。
むしろ、緩やかだ。
良い人材から、順に去っていく。
「別の道を探したい」
「今の職場では、判断ができない」
「自分たちで責任を持って働きたい」
そういう理由で。
彼らは、組織の問題を言語化できていない。
ただ、「ここでは、自分たちが育たない」という感覚がある。
「かつての中心人物が居ない後の組織では、自分たちの価値が発揮できない」という無意識の察知がある。
優秀な人材ほど、その感覚が研ぎ澄まされている。
だから、去っていく。
組織に残るのは、「指示を待つことに慣れた人たち」だけになる。
ここで、究極の問いが立つ。
その指導者は、本当に「優秀だった」のか。
組織の視点から見ると、実は違う。
優秀な経営者とは、自分が中心でなくなっても、組織が動き続ける仕組みを作る人だ。
判断基準を組織に埋め込む人だ。
部下たちの判断能力を育てる人だ。
後継者を育てる人だ。
その視点から見ると、その指導者は、実は「依存構造を作っていた」に過ぎないのだ。
短期的には、成果が出た。
だから、優秀に見えた。
だから、カリスマに見えた。
けれど、長期的には、組織を脆くしていたのだ。
良い人が一生懸命やる組織。
対話が豊富に見える組織。
皆が中心人物についていく組織。
そういう組織ほど、実は中心人物への依存が深い。
その人が中心でなくなったとき、その脆さが露呈する。
部下たちが「本当のことを言えない環境」は、その人が中心にいるうちは「信頼」に見える。
けれど、その人が中心でなくなると「無力」に変わる。
組織を見ていて、最も切なく感じるのは、このときだ。
中心人物が健在なうちに作るべきだったのは、「その人に依存する組織」ではなく、「その人が中心でなくなっても動く組織」だ。
それには、対話が豊富であることより、「本当のことが言える環境」が必要だ。
効率的な判断より、「部下たちが判断する経験」が必要だ。
カリスマ的な指導より、「意思決定の基準の共有」が必要だ。
指導者が本当に優秀であれば、最終的に求められるのは、自分が「必要なくなる」ことだ。
自分の判断が必要でなくなり、組織が自律的に動き始めるその瞬間。
それが、組織を本当に強くする唯一の道なのだと思う。