INSIGHT 03

置いていかれた感情

置いていかれた感情

ある会社で、こんな場面があった。
制度変更についての会議だった。

数字も揃っていた。比較資料もある。リスクも整理されている。
説明は正確で、反論の余地がないほど論理的だった。

けれど、会議室の空気だけが、どこか沈んでいた。

誰も反対しない。
ただ、誰も前に進んでいる感じがしない。

発言している人たちも、間違ったことを言っているわけではない。
むしろ正しい。公平性もある。整合性もある。
いまの時代なら、「適切な判断」と言われる類のものだった。

それでも、その場には、置いていかれたものがあった。

人の気持ちである。

最近、組織を見ていて感じるのは、「正しさ」が強くなりすぎていることである。

説明責任。
透明性。
合理性。
再現性。

どれも必要なものだと思う。

ただ、それらが前面に出れば出るほど、人の心の動きが「ノイズ」のように扱われ始めることがある。

傷ついた感覚。
寂しさ。
怖さ。
納得できない違和感。

そういうものは、会議の議事録には残らない。
けれど実際には、人は、そうした見えない感情の上でこそ働いている。

数学者の岡潔は、「情緒」という言葉を繰り返し使った人だった。
そして、こう書いている。

「人間が人間である中心にあるものは科学性でもなければ論理性でもなく理性でもない情緒である。」

数学者の言葉とは思えない、と感じる人もいるかもしれない。
しかし岡潔は、世界的な数学者でありながら、論理だけでは人間は動かないことを見続けていた人でもあった。

むしろ彼は、論理が強くなりすぎた社会に対して、強い危機感を持っていた。

岡潔の文章を読んでいると、ときどき、現代の組織のことを書いているように感じる瞬間がある。

正論ばかりが並ぶ会議。
正しいが、冷えている判断。
間違ってはいないのに、人が静かに疲弊していく空気。

それらはすべて、「情緒」が置き去りにされた状態なのかもしれない。

岡潔はこうも言っている。

「心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。」

これは、まさに組織の中で、毎日起きていることではないか。

制度上は正しい。
評価基準も公平。
説明も十分。

それでも、人が動かない。

なぜか。

情が承知していないからである。

本当は悲しかった。
悔しかった。
怖かった。
置いていかれた気がした。

でも、それを言葉にできない。
言った瞬間に、「感情論」として片づけられてしまうからだ。

すると人は、黙る。

そして組織の中には、「正しい沈黙」が増えていく。

最近の組織は、優しさよりも正確さを求められることが多い。

間違えないこと。
説明できること。
論破されないこと。

しかし、その空気の中では、人はだんだん「感じなく」なっていく。

感じると苦しいからだ。

本当は無理をしている。
本当はついていけていない。
本当は傷ついている。

でも、それを自分でも見ないようにする。

組織の疲労は、たいていそこから始まる。

岡潔は、「情緒が生き生きすれば、知はよく働く」と語っている。

逆に言えば、情緒が痩せていくと、人の知性も鈍っていく。

現場を見ていると、それは本当にそうだと思う。

安心して話せる場では、人はよく考える。
少し雑談がある組織では、意外なアイデアが出る。
「こんなこと言っていいのかな」が減ると、人は創造性を取り戻していく。

逆に、正しさばかりが先行する場では、人は「間違えないこと」に意識を奪われる。

そこでは、知性は働いているようで、実は縮こまっている。

岡潔は、論理を否定したわけではない。
数学者なのだから、むしろ論理の厳しさを誰より知っていた。

そのうえで、「論理だけでは人間を支えられない」と言ったのである。

いまの組織を見ていると、この視点はとても重要に思える。

正しい判断なのに、人が離れていく。
合理的なのに、空気が冷える。
制度は整っているのに、誰も本音を言わなくなる。

そういう組織は少なくない。

そこでは、「何を決めたか」より先に、「人の心がどう置いていかれたか」を見たほうがいいことがある。

人は、論理だけでは働けない。

納得には、感情がいる。

そして、その感情は、効率化された会議の中では、とても見えにくい。

こうした場面は、組織の中に無数にある。

ある管理職の方が、こんな話をしていた。

部署の再編が決まり、数人の異動が必要になった。
業績、スキル、年齢構成。いろいろな条件を整理し、最も合理的な配置を考えたという。

誰が見ても、妥当な判断だった。

実際、反対も出なかった。
本人たちも、「会社として必要なら」と受け入れた。

ただ、そのあとだった。

職場から、少しずつ雑談が消えていった。

以前は自然に起きていた相談も減り、報告だけが残った。

空気が悪いわけではない。
むしろ穏やかだった。

でも、どこか、人が遠くなった。

その方は言っていた。

「間違ってはいなかったと思うんです。でも、何かを取り落とした感じがあるんです」

組織を見ていると、こういう感覚に出会うことがある。

正しい。
合理的。
説明可能。

けれど、人の心だけが、その判断に追いついていない。

最近は特に、「説明できること」が重視される。

感覚ではなく、根拠。
印象ではなく、データ。
誰が見ても納得できる透明性。

もちろん必要なことだと思う。

ただ、その流れが強くなるほど、人の内側で起きているものが、扱いづらくなっている気がする。

寂しかった。
悲しかった。
置いていかれた気がした。

そういう感情は、数値化できない。

だから会議には乗りにくい。
資料にも書きづらい。

すると、人はそれを飲み込む。

飲み込まれた感情は、消えるわけではない。

ただ、静かに組織の底に沈んでいく。

数学者の岡潔は、「情緒」という言葉をとても大切にした人だった。

この言葉を読むたびに、組織の中で起きている多くのすれ違いを思い出す。

人は、論理だけで動いているわけではない。

むしろ、感情の納得がないまま進んだ判断は、あとから静かに歪みとして現れる。

表面上は問題がない。
反発もない。
制度も回っている。

でも、以前より誰も挑戦しなくなった。
提案が減った。
少しずつ、人が「期待しなく」なっていく。

そういう変化である。

岡潔は、論理を軽視した人ではない。
世界的な数学者であり、極限まで論理を扱った人だった。

そのうえで、なお、人間の中心には情緒があると言った。

それは、かなり重たい言葉だと思う。

現代の組織では、「正しいこと」が非常に強い。

正論であること。
公平であること。
説明責任を果たせること。

その基準から外れると、「未熟」「感情論」と扱われやすい。

だから人は、自分の感情を後回しにする。

本当は傷ついていても、
「会社としては仕方ないですよね」と言う。

本当は苦しいのに、
「理解はしています」と答える。

そうやって、心が置いていかれていく。

これは、制度として正しいことと、人が納得できることが、少し違うということだ。

そのズレを、「わがまま」として処理してしまうと、組織は静かに硬くなる。

最近、「なぜか現場に活気がない」という相談が増えた。

話を聞いていくと、原因は一つではない。

ただ、多くの現場に共通しているのは、「感じる余白」がなくなっていることだった。

速さ。
正確さ。
合理性。

それらが優先され続ける中で、人はだんだん、自分の感情を置いて仕事をするようになる。

でも、人間は、本来そういう生き物ではない。

感情は、非効率なノイズではなく、人が人であるための土台なのだと思う。

岡潔が言いたかったのも、たぶん、そこだったのではないか。

論理が人を導くことはある。

ただ、論理だけでは、人は生きていけない。

Written by 荒木 太嗣

経営の立場からも、現場の最前線からも、人と組織を見てきた。
だからこそ、組織は制度だけでは動かず、現場の納得や対話が欠かせないと考えている。
実践者としての視点を大切にしながら、育成・対話・組織づくりに携わる。