段階を見抜く② 別の関わり方の発見
3ヶ月後、田中さんは営業部門での山田さんの姿を目にして、驚いた。
会議室で営業案件について議論されていた。
営業企画から提出された提案に対して、山田さんが手を挙げた。
「この案件ですが、顧客のニーズから考えると、まずは『稼働率の実績データ』を確認してから、提案を組み立てるべきだと思うんです。前回のやり取りから、客先は単なるコスト削減より『実現可能性の証拠』を重視しているようなので」
田中さんは、その言葉の「質」に気づいた。以前の山田さんは、提案を待ち、指示を仰ぎ、上司の判断基準に自分を合わせていた。しかし、ここにいる山田さんは違う。顧客を観察し、仮説を立て、その仮説を言語化している。
「判断基準を自分で作っている」——田中さんはそう感じた。
その直後、新しい上司である鈴木さんが、山田さんに声をかけた。
「山田さん、その意見はいいね。では、なぜその順序にしたいのか」
「前回の打ち合わせで、客先の担当者が『以前、別のベンダーには失敗されている』という話をしていたんです。だから、『この会社ならできる』という根拠を先に示す必要があると思いました」
「そうか。では、その根拠は、どこから引っ張ってくる?」
「稼働率の実績を提示して、『この数字が、私たちの実行能力の証だ』という説明ですね」
「そして、その説明を顧客がどう受け取ると思う?」
山田さんは少し考えてから答えた。
「信頼につながると思います。ただ、その後の詳しい説明で、『なぜこの稼働率が出せているのか』という理由まで説明できないと、数字だけになってしまう気がします」
鈴木さんは微笑んだ。
「そうだね。では、そこまで含めて、一度、君の想定で組み立ててみてくれ。それで実際に客先に提案する形を作る。どうかな」
「わかりました。試してみます」
鈴木さんは山田さんに「正解」を与えなかった。
答えを教えるのではなく、山田さんが自分で判断基準を作り、試行錯誤するプロセスを信頼していた。失敗も、学習の一部として扱っている。
山田さんが「自分で考えて動く」ことを前提にしている。
田中さんは、その場面を見ながら、心に引っかかるものを感じた。
不快感ではない。むしろ、自分が見落としていた何かが、その場に存在していることへの気づき。
「間違っていたのではなく、気づいていなかった」——その言葉が、田中さんの心に落ちた。
自分は、山田さんに「正しい判断基準」を持たせるべきだと考えていた。
営業の経験者として、「この状況ではこう考えるべき」という基準を教えることが、マネジメントだと思っていた。
山田さんがその基準を内在化すれば、彼女は自立するはずだ。そう信じていた。
しかし、鈴木さんは違う関わり方をしていた。山田さんが「自分で判断基準を作るプロセス」を経験することを信頼していた。
その過程で、失敗もあるかもしれない。
しかし、その試行錯誤こそが、山田さんの中に「自分自身の判断基準」を生み出す。
田中さんが与えようとしていたのは「判断基準」という結果だった。
鈴木さんが信頼していたのは「判断基準を作るプロセス」そのものだった。
その違いは、山田さんの自律性において、取り返しのつかない差を生み出していた。
ロバート・キーガンの成人発達理論で言えば、田中さんと山田さんは、発達段階が異なっていた。
田中さんは第4段階——自分自身の価値体系を内在させ、自分の判断基準から世界を見ている。
一方、山田さんは第3段階——他者の期待に応えることが良し悪しを決定し、周囲の評価に揺らいでいた。
第3段階にいる人の特性は、明確だ。
周囲からの評価が自分の価値そのものである。
「上司に褒められること」「チームから信頼されること」「顧客に喜ばれること」——そうした外的な評価が、その人の良し悪しを決定する。
自分独自の価値判断基準を持たないのではなく、まだ形成途上であり、試行錯誤の中で内在化させるプロセスが必要な段階なのだ。
第4段階に到達すると、話が変わる。田中さんのように、自分自身の価値体系が内在している。
営業という領域での経験を積む中で、「顧客のニーズを先に確認する」「相手の背景にある事情を理解する」という基準が、もはや「常識」レベルで身についている。
その判断基準は、田中さんの中で「当たり前」になっているのだ。
その時点では、田中さんのアプローチは「論理的」に見えた。
第4段階の人が、第3段階の人に「判断基準を教える」ことは、自然に思える。
発達段階を「上」と「下」として見れば、上の段階の人が、下の段階の人を「引き上げる」という構図が成立するように見える。
だが、そこに深刻な落とし穴がある。
第4段階の人にとって、自分の判断基準は「当たり前」である。
その「当たり前」が、実は「自分がこれまでの経験の中で獲得してきたもの」であり、決して「普遍的な真理」ではないことに、気づきにくい。
営業の経験を積んだ者なら、「顧客のニーズを先に確認すべき」という原則が「常識」に見える。
その常識を、第3段階の人に伝えることが、マネジメントだと思い込む。
しかし、第3段階の人にとって、その「常識」は他人のものである。
田中さんが与えた判断基準は、山田さんの中で「正解」として暗記される。
そして、似たような場面では「これがルール」という形で適用されるかもしれない。
しかし、それは山田さんの「判断基準」ではなく、「教えられたマニュアル」に過ぎないのだ。
教えられた判断基準を暗記することと、自分で試行錯誤の中から判断基準を作ることは、全く異なる。
前者は、その人を「指示待ちの状態」のままに保つ。
顧客のニーズを先に確認することができるのは、田中さんが指示したからであり、「なぜそうすべきなのか」という自分自身の理解がない。
だから、想定外の状況が来たとき、その人は立ち止まってしまう。
後者——自分で試行錯誤の中から判断基準を作るプロセス——こそが、その人を真に第4段階へ導く唯一の道である。
鈴木さんが山田さんに示していたのは、まさにそのプロセスだった。
「この案件をどう進める?」という問いから始まり、山田さんが自分で仮説を立て、その仮説の根拠を言語化する。
その過程で、山田さんは「顧客のニーズを先に確認すべき理由」を、自分の観察と思考から導き出している。
失敗するかもしれない。しかし、その失敗も、学習の一部として機能する。
鈴木さんが示していたのは、第4段階「内部」での別の関わり方だった。
自分の判断基準が「普遍的」ではなく、「自分がこれまでの経験で獲得したもの」であることを括弧に入れる。
その上で、相手がそのプロセスを自分で歩むことを信頼する。
それは、自分の「正しさ」を手放すことではない。
むしろ逆だ。自分の「正しさ」がどのような経験の積み重ねから生まれたのかを自覚し、相手も同じようなプロセスを必要としていることを理解することだ。
相手の発達段階を認識することだった。
そして、その認識から生まれる柔軸性こそが、相手を真に「上の段階」へ導く唯一の手段である。
では、私たちが相手を見るとき、発達段階を本当に「見抜いている」のか。
その問いを前にして、田中さんは立ち止まった。
発達段階を「認識する」と「判断する」は、似ているが異なる。
相手の段階を認識することは、その人の現在地を理解することだ。
しかし、多くの場合、私たちは「認識」と「判断」を混同している。
「第3段階だから、教えてあげよう」という思考の中には、相手を「低く見る」ことが隠れていないか。
相手を「見抜く」という行為の中には、実は「自分の判断基準で相手を測定する」という暴力性が潜んでいるかもしれない。
自分の基準が「常識」であり「正解」であることを前提にして、相手をそこに照らし合わせる。
田中さんは自分の経験に基づいて、山田さんを「判断」していた。
山田さんを観察し、「この人は第3段階だ」と認識したのではなく、「この人は第3段階である(だから指導が必要である)」と判断していたのだ。
その判断の中には、山田さんの現在地に対する無知、そして自分の基準の絶対性への信念が隠れていた。
発達段階を理論として知ることと、その相手の現在地に対して「無知」でいることの間には、深い落差がある。
理論を知ることで、私たちは「わかった気」になる。
しかし、その相手がなぜそう考えるのか、何を大事にしているのか、どの瞬間に判断基準を作ろうとしているのか——そうした細部については、理論は沈黙している。
理論の枠組みで相手を「理解した」と思うことほど危険なことはない。
鈴木さんが山田さんに対して示していたのは、その落差を自覚した上での関わり方だった。
「正解を知っている」という立場から、相手を導こうとするのではなく、「この人が自分で答えを見つけるプロセスを信頼する」という立場から、問いを重ねる。
その問い——「なぜその順序にしたいのか」「顧客がどう受け取ると思うか」——の中には、山田さんの思考プロセスを信頼する姿勢と、自分は「知らない」という謙虚さが込められている。
鈴木さんは、山田さんの答えを待つ。
そして、その答えから、山田さんがどの段階にいるのかを感じ取る。
「稼働率の実績を示す」という提案から、山田さんが「顧客心理」を観察していることに気づく。
「なぜこの稼働率が出せているのか説明できないと、数字だけになってしまう気がします」という言葉から、山田さんが自分で思考の矛盾に気づこうとしていることを感じる。
その過程で、鈴木さんは山田さんを「導く」のではなく、山田さんの「学習プロセス」に同伴する。
失敗も成功も、すべてが学習の材料である。だから、「試してみてくれ」という言葉が、単なる「任命」ではなく「信頼」として機能するのだ。
その問いの中にこそ、相手の発達を促す真の対話が存在する。
では、真の対話とは何か。
それは、自分の判断基準を「当たり前」から解放し、相手の試行錯誤に耳を傾けることだ。
その時初めて、私たちは相手を「見抜く」のではなく、相手とともに「見える」ようになる。
田中さんは、その瞬間を目撃していた。
自分が見落としていたもの。
それは、山田さんの可能性ではなく、自分の「見方」の限界だった。
山田さんが変わったのではなく、山田さんを見る「視点」が、初めて、その人の現在地に届いたのだ。